※この記事の中には災害現場の写真が多数含まれています。
死者6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名
1995年1月17日 後に阪神淡路大震災と呼ばれる大地震が起きた。
そしてこの日が日本の防災の日となった。
ボランティアという言葉ができたのも、消防救助機動部隊が設立されたのも、この震災がきっかけだった。
私自身が災害へお手伝いに行ったのも、この震災が最初でした。
2011年3月11日の東日本大震災が日本を襲い、日本中の多くのボランティアが被災地へ足を運んだのは皆さんもよくご存じの事だと思います。
2014年9月の段階で、死者15889人、行方不明者2609人、避難生活者245622人、未だ2600人以上の方が行方不明になっている。
この2600人以上の方が行方不明になっている事をどれだけの国民が認識しているだろう。
おひとりに5人の親族がいるとして、13000人以上の方がまだ家族や親せきを探している事になります。
その事実を何人の日本国民の方々が知っているのだろう?
そして冒頭に述べた、阪神淡路大震災や、中越地震など多くの災害が、どれだけの方の記憶に刻み付けているのだろう。
そんな事をこの時期には毎年考えてしまいます。
私自身東北の震災以降、何度も東北へ足を運ばせて頂きました。
最初は震災の年の夏ごろに、岩手の陸前高田市へ。 陸前高田市へ何度か足を運んだ後、同じく岩手の釜石市へ、 そしてその後は宮城県へ、石巻、気仙沼、亘理、山元、南三陸、 福島県へは2014年になってから初めて南相馬市へ。 その間にも日本各地で様々な災害が発生し、多くの方が自然災害の被害の被害に遭われていた。
一昨年は京都福知山の豪雨災害、埼玉越谷の竜巻災害、岩手北上の豪雨災害、
そして伊豆大島の豪雨災害の地域へ、 一般的には災害ボランティアと呼ばれるお手伝いに行っていた。
昨年は1月3日から伊豆大島の災害ボランティア活動へ、その他では山形の豪雨災害地域、 四国徳島の豪雨災害、 広島豪雨土砂災害、 兵庫県丹波の豪雨土砂災害地域などへ、災害ボランティアとして参加させて頂いた。 私自身の変化として、いくつかの資格なども取得し災害現場で重機を操縦したり、チェーンソーや刈り払い機などの機材を使ったりと個人の活動の範囲が広がった。
最近ではテクニカルボランティアチームとして、災害木の伐木処理や、重機を使って瓦礫の運搬などの現場で活動させて頂く機会が多くなっています。 豪雨による土砂災害は、泥まみれの水と、山からの土砂や土石流の場合は土砂や瓦礫が、家屋や人を襲います。
山の麓にあったお家が海まで流されたり、自動車より大きい岩が家を直撃したり、家が破壊されなくても、床上や床下に大量の泥水と土砂が家を覆い尽くすこともあります。
災害ボランティアは時には行方不明者の方の捜索活動や、土砂・瓦礫の処理、泥の詰まった床下に潜り込み、ひたすら泥を掻き出すこともあります。
頭の先からあしの先まで泥だらけになるのは十分承知、老若男女の方々が『困った時はお互い様』そんな気持ちで現場に入っています。
いつも災害現場に入らせてもらう時に感じることは、自分達は作業が終われば安全な自宅に戻り、温かい風呂に入って旨い飯を食って、あったかい布団で寝ることができます。
でも被災された方々は、着替えもなく、住む家も、食べ物すら普段の食事もできない、まして風呂なんて何日も入れない。
同じ日本という小さな島国に住んでいて、これだけ生活の差があることに違和感を覚えることがよくあります。
片方は避難所で肩を寄せ合い、隣に迷惑が掛からないように声を殺して生活したり、山奥の避難所から出られなく、買い物にも行けないような生活を強いられたり、でもそんな生活をされている方を知った次の日には、東京の渋谷や新宿で若者がファッショや、遊びに興じている姿を見てしまう・・・
過酷な現場に入るだけが勿論、災害支援ボランティアではありません。
被災者の方とお話をする傾聴ボランティアや、流されて泥だらけになった写真などを洗浄するボランティアなどもあります。
その精神状態を惨事ストレスとし、メンタルケアが必要だといわれますが、果たしてそうなのでしょうか?
災害直後に現場に入る自衛隊やレスキューの隊員の皆さんの中にはご遺体に直面し惨事ストレスに悩まされる方も多いと聞きます、でも我々災害支援を行うボランティアは、すべて承知の折込済みで厳しい現場に進んで入るメンバーもいます。
よく周囲の人がおっしゃる言葉に、「国が何とかしてくれないの?」「行政は何をしているの?」「国や自治体がもっと寄り添うべきだ」など。
被災地に入ると感じることは、国や自治体は、それなりに頑張っている、ただ全ての被災地や被災者に漏れなく十分な支援を行き渡らせることはとても難しいと思います。
だからこそ民意のボランティアが国や自治体の目が行き届かないニーズを拾い上げ、少しでもお手伝いをさせていただければと思っています。
ボランティアという言葉の意味を調べると、志願兵という意味が出てきます。でもこの災害におけるボランティアでいえば、志願兵というほど大層なものではなく、『困ったときはお互い様』そんな気持ちで活動に参加させて頂いています。 防災の日とされる1月17日、この日は私にとって防災の日ではなく、やはり阪神淡路大震災で多くの方が亡くなった日であり、追悼の気持ちを持つ日です。
あの日あの地震が1時間遅く起こっていたら、私はあの倒壊した阪神高速道路の上を車で走っていました。
そう阪神高速神戸線を走っている予定でした。
大阪の実家であの揺れを体感し、多くの友人・知人が被災した私にとっては忘れることのできない災害でした。
年々大きくなる台風、そして今どこで揺れてもおかしくないほど日本中に地震が起こり、火山の噴火、冬の豪雪、そして原発の放射能。
これからも大きな災害は起こると思います、1月17日だけではなく、多くの人が自分自身に災害が降りかかっても生き抜くという気持ちと強く持ってほしいと切に願います。
一人一人が必ず生きる、その気持ちを持てば人的災害は最小限に抑えられます。
そのことを多くの人に知ってほしい。
災害に立ち向かって殉職された、消防隊員、自衛官、警察官、消防団員の多くの皆様、そして全国各地の災害で命を落とされた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
死者6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名
1995年1月17日 後に阪神淡路大震災と呼ばれる大地震が起きた。
そしてこの日が日本の防災の日となった。
ボランティアという言葉ができたのも、消防救助機動部隊が設立されたのも、この震災がきっかけだった。
私自身が災害へお手伝いに行ったのも、この震災が最初でした。
2011年3月11日の東日本大震災が日本を襲い、日本中の多くのボランティアが被災地へ足を運んだのは皆さんもよくご存じの事だと思います。
2014年9月の段階で、死者15889人、行方不明者2609人、避難生活者245622人、未だ2600人以上の方が行方不明になっている。
この2600人以上の方が行方不明になっている事をどれだけの国民が認識しているだろう。
おひとりに5人の親族がいるとして、13000人以上の方がまだ家族や親せきを探している事になります。
その事実を何人の日本国民の方々が知っているのだろう?
そして冒頭に述べた、阪神淡路大震災や、中越地震など多くの災害が、どれだけの方の記憶に刻み付けているのだろう。
そんな事をこの時期には毎年考えてしまいます。
私自身東北の震災以降、何度も東北へ足を運ばせて頂きました。
最初は震災の年の夏ごろに、岩手の陸前高田市へ。 陸前高田市へ何度か足を運んだ後、同じく岩手の釜石市へ、 そしてその後は宮城県へ、石巻、気仙沼、亘理、山元、南三陸、 福島県へは2014年になってから初めて南相馬市へ。 その間にも日本各地で様々な災害が発生し、多くの方が自然災害の被害の被害に遭われていた。
一昨年は京都福知山の豪雨災害、埼玉越谷の竜巻災害、岩手北上の豪雨災害、
そして伊豆大島の豪雨災害の地域へ、 一般的には災害ボランティアと呼ばれるお手伝いに行っていた。
昨年は1月3日から伊豆大島の災害ボランティア活動へ、その他では山形の豪雨災害地域、 四国徳島の豪雨災害、 広島豪雨土砂災害、 兵庫県丹波の豪雨土砂災害地域などへ、災害ボランティアとして参加させて頂いた。 私自身の変化として、いくつかの資格なども取得し災害現場で重機を操縦したり、チェーンソーや刈り払い機などの機材を使ったりと個人の活動の範囲が広がった。
最近ではテクニカルボランティアチームとして、災害木の伐木処理や、重機を使って瓦礫の運搬などの現場で活動させて頂く機会が多くなっています。 豪雨による土砂災害は、泥まみれの水と、山からの土砂や土石流の場合は土砂や瓦礫が、家屋や人を襲います。
山の麓にあったお家が海まで流されたり、自動車より大きい岩が家を直撃したり、家が破壊されなくても、床上や床下に大量の泥水と土砂が家を覆い尽くすこともあります。
災害ボランティアは時には行方不明者の方の捜索活動や、土砂・瓦礫の処理、泥の詰まった床下に潜り込み、ひたすら泥を掻き出すこともあります。
頭の先からあしの先まで泥だらけになるのは十分承知、老若男女の方々が『困った時はお互い様』そんな気持ちで現場に入っています。
いつも災害現場に入らせてもらう時に感じることは、自分達は作業が終われば安全な自宅に戻り、温かい風呂に入って旨い飯を食って、あったかい布団で寝ることができます。
でも被災された方々は、着替えもなく、住む家も、食べ物すら普段の食事もできない、まして風呂なんて何日も入れない。
同じ日本という小さな島国に住んでいて、これだけ生活の差があることに違和感を覚えることがよくあります。
片方は避難所で肩を寄せ合い、隣に迷惑が掛からないように声を殺して生活したり、山奥の避難所から出られなく、買い物にも行けないような生活を強いられたり、でもそんな生活をされている方を知った次の日には、東京の渋谷や新宿で若者がファッショや、遊びに興じている姿を見てしまう・・・
過酷な現場に入るだけが勿論、災害支援ボランティアではありません。
被災者の方とお話をする傾聴ボランティアや、流されて泥だらけになった写真などを洗浄するボランティアなどもあります。
その精神状態を惨事ストレスとし、メンタルケアが必要だといわれますが、果たしてそうなのでしょうか?
災害直後に現場に入る自衛隊やレスキューの隊員の皆さんの中にはご遺体に直面し惨事ストレスに悩まされる方も多いと聞きます、でも我々災害支援を行うボランティアは、すべて承知の折込済みで厳しい現場に進んで入るメンバーもいます。
よく周囲の人がおっしゃる言葉に、「国が何とかしてくれないの?」「行政は何をしているの?」「国や自治体がもっと寄り添うべきだ」など。
被災地に入ると感じることは、国や自治体は、それなりに頑張っている、ただ全ての被災地や被災者に漏れなく十分な支援を行き渡らせることはとても難しいと思います。
だからこそ民意のボランティアが国や自治体の目が行き届かないニーズを拾い上げ、少しでもお手伝いをさせていただければと思っています。
ボランティアという言葉の意味を調べると、志願兵という意味が出てきます。でもこの災害におけるボランティアでいえば、志願兵というほど大層なものではなく、『困ったときはお互い様』そんな気持ちで活動に参加させて頂いています。 防災の日とされる1月17日、この日は私にとって防災の日ではなく、やはり阪神淡路大震災で多くの方が亡くなった日であり、追悼の気持ちを持つ日です。
あの日あの地震が1時間遅く起こっていたら、私はあの倒壊した阪神高速道路の上を車で走っていました。
そう阪神高速神戸線を走っている予定でした。
大阪の実家であの揺れを体感し、多くの友人・知人が被災した私にとっては忘れることのできない災害でした。
年々大きくなる台風、そして今どこで揺れてもおかしくないほど日本中に地震が起こり、火山の噴火、冬の豪雪、そして原発の放射能。
これからも大きな災害は起こると思います、1月17日だけではなく、多くの人が自分自身に災害が降りかかっても生き抜くという気持ちと強く持ってほしいと切に願います。
一人一人が必ず生きる、その気持ちを持てば人的災害は最小限に抑えられます。
そのことを多くの人に知ってほしい。
災害に立ち向かって殉職された、消防隊員、自衛官、警察官、消防団員の多くの皆様、そして全国各地の災害で命を落とされた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
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この記事の寄稿者
田中宏信
(株)エイジプラス 東京支社長兼関東有料老人ホーム紹介センター主任相談員。介護施設の紹介業をしつつ、プライベートでは全国の被災地へ出かけてボランティアをしてます。