杉本志乃さん
株式会社 FOSTER代表。
障がいをもちながら芸術活動に励むアーティストの作品を広める活動をしているアートコンサルタント。2017年3月、東京表参道EYE OF GYREにて知的障がいを持つ芸術作家のアート作品を展示・販売する企画展を開催予定。
【中浜】自己紹介をお願いします。
【杉本】初めまして。杉本志乃と申します。北海道帯広市出身です。小学3年生のときに父が他界し、1つ上の脳性小児麻痺の兄と2つ下の妹と母子家庭で育ちました。
現在、兄は帯広で母の住まいの近くの施設に籍を置いています。
私が小学生のころ、母が帯広市の市議会議員をしていていた関係で、全国の福祉施設や障害者施設などに、夏休みを利用して訪問するという特殊な体験をしました。それが私の原点です。
現在は障がいをお持ちになって芸術活動をしておられるアーティストの作品をご紹介して広めるという活動をしています。
脳性麻痺の兄との生活
【中浜】お兄さんが脳性麻痺だったんですか。
【杉本】はい。満1歳半ぐらいの知能ですが、幸いにも身体は元気です。走ることはできませんが、お散歩したり、施設の中で飼っている馬に乗らせていただいたり、そういったアクティビティができるくらい健康なので、お陰様で幸せに暮らしています。
【中浜】施設に馬がいるってすごいですね!
やはり子どものころからお兄さんのお世話をされていたんですか?
【杉本】そうですね。家族みんなで暮らしていたんですが、父が亡くなったあと、母がフルタイムで働かないと暮らせないという状況になって、兄が11歳のときに施設にお願いすることにしました。今思うと、それが私の人生のなかで一番悲しかったことです。
父が亡くなったという悲しみよりも、兄を施設に預けなければいけなかったということが今思い出してもつらい出来事でしたね。
【中浜】お母さんと妹さんとともに、お兄さんのお世話をしながらという生活も大変だったんですよね。
【杉本】私も妹も学校行かないといけないので、大変でした。当時は養護学校の制度もおそらく整っておらず、先生が訪問学級のように定期的にいらして兄のエクササイズやちょっとした知育を行っていたのを覚えています。
兄は当時トイレもきちんとできなかったので、物心ついたときから当たり前のように兄のおむつを変えたり、お風呂の介助をしたりしていました。
【中浜】それで、お食事のお手伝いなども?
【杉本】もちろんです。咀嚼をして飲み込むことには問題ないのですが、当時はスプーンやお箸を使うことができなかったので。でもスプーンを使って自分で食べるという訓練を施設で長年続けていた結果、今はなんと使えるんです。お箸はさすがに無理ですけどね。
兄を施設に預けるという選択
【中浜】辛かった経験のところで1つ聞きたいのが、高齢者の場合、やはり自分の親を施設に預けるときに悩む方がいらっしゃるんですね。施設の良し悪しではなく、施設に預けてしまうこと自体に罪悪感を感じてしまう方がすごく多いんです。杉本さんの体験のなかにも、ものすごい葛藤がご家族の皆さんにあったと思うんです。どんな話し合いのなかでお兄さんを施設に預けるという流れになったのでしょうか?
【杉本】おそらく母の思いとしては、このまま兄が家で暮らすと家族の生活が破綻してしまうと考えたのでしょう。母は働きに出て、皆の食い扶持を稼いでこなくてはならない。私たちは学校に行かなくてはならない。それで後々いろんな意味ですごく負担になるわけです。私たちが将来を考えて進学するときに、兄が家にいることによって大きな負担を強いられるかもしれないという思いが母にあったんだと思います。物理的な要素と、娘たちの将来を案じてということ。それと幸いにも近くに施設があったんですね。徒歩30分くらいで、車でもタクシーでも行ける距離なので、週末や長期のお休みには連れて帰れます。基本のベースキャンプはその施設において、あとは状況に応じて一緒に過ごす時間も確保できるということだったので、母が決断したんだと思います。
【中浜】施設に入るとどうしても心が遠くにいってしまう感じがしますが、物理的にも本当に近くにあって、また余裕があるときは連れて帰ってこれるということで、決断のしやすさは少しあったのかもしれないということですね。
【杉本】本当にそれは幸いだったと思いますね。それでも、当時の私と妹としては「預けたくない」と言って、もう本当に大泣きして大変だったんですよ。連れて帰ると言って母に抵抗したんですけれど母の意志は固く、今思えば大人の視点で考えると施設にベースキャンプを確保して私たちの生活も立て直すということが、あの時の判断としてはベストだったのではないかと思いますね。
【中浜】本当に学校とお兄さんのお手伝いの両立で大変だったと思うんですが、それでもやっぱり兄弟だから、家族だから、近くにいてほしいという気持ちってすごいですよね。
【杉本】そうですね。兄のお世話で生活にいろんな制限があるのが嫌だとは思いませんでした。あまりにも普通に家にいて、私の妹なんて兄を相手にずっと遊んでましたし、母がすごくオープンな人だったので、とにかく兄もどこにでも連れ出していたので、その地域では結構な有名人だったんです(笑)。
なので、小学校のころ遊んでいた古い友だちに「あのころの彼の存在が今の私の人生に生きているんだよ」なんて言われることもあるんです。それくらい地域にちゃんと根づいていて、兄の存在が受け入れられていた、すごく優しい良い時代でした。
障がいがあっても地域に受け入れられていた過去
【中浜】お母さんの「オープンにしましょう」というスタイルは当時からしたら珍しいんじゃないですか?おそらく、今でも障がいを持つ子どもを表に出していいものかどうかって悩んでいる方々が多いと思います。そんななか、当たり前のように障がいを持つ子どもと生活のなかで出会って、お友だちとして過ごしたら、それが当たり前の感覚というか「いろんな人がいて当たり前」ということになるんでしょうね。
【杉本】振り返ってみると、あの頃はクラスにおかしな子がいたものですよ。先生のとなりに席があることもありました。クラスに明らかにおかしな子がいても皆なんとなくグチャグチャになりながらも成り立っていたんですよね。いじめみたいなこともありましたが、自発的にその子のお世話をする子もいました。彼らの存在は確固たるものとして地域のなかに受け入れられていました。ですが、今はそれが完全になくなっているんですよ。
【中浜】確かにクラスが別になったりしていますよね。
【杉本】クラスどころか学校も別になっています。養護学校(特別支援学校)という箱物がきちんとできてしまうことによって、障がいを持つ子どもたちの存在が社会から消えてしまうと懸念し、その当時私の母などは反対運動をしています。障がいの程度にもよりますが、障がいを持っている子どもの親御さんたちは普通のクラスで皆と一緒に教育を受けさせたいと思っている方が多くいらっしゃるんですね。社会のなかに溶け込ませるという方向に向かうべきなのに、それと逆行している現実があります。
【中浜】お話を聞いて、僕も小学校のころ、クラスに知的障がいのような子がいたのを思い出しました。でも良くも悪くも可愛がられていたというか、それでいて何か難しいことが起きたときは誰かが手を貸して、何も言わずとも皆がその子のやりやすいよう工夫していましたね。休み時間は一緒に休むし、地域の野球のクラブで一緒に野球をやっていたし。確かにそういう経験って今でも自分のなかにあります。彼は別に特別な人間ではなくて、単なるそういう個性を持った子でしかなくて、もしかしたら自分にとっていろんなことの壁を取っ払ってくれたのではないかと思います。
一度できてしまった箱物を崩すことは難しいかもしれませんが、新たに出会うチャンスを増やしていった方が良いですね。
【杉本】絶対、健常者の人にとっても私は良いことだと思うんですよ。優しくなれるし、やっぱりこういうスピードとか合理性ばかり重視する世の中でこそ、彼らの存在というのはとても意味のあるものになるのではないでしょうか。
アートとの出会い
【中浜】そのような子ども時代を経て、アートに関心をもったきっかけはなんですか?
【杉本】母がすごい美術好きだったんです。あまり贅沢はできませんが、地元の作家の方たちを応援して作品を少しずつ集めたりとか、田舎の画廊主と親しくて企画展を開くのに関わったりとか、そういうことを日常的にしていました。当時としては珍しく家にたくさん海外の作家の画集などがあったので、自然にアートの世界には関心を持って育ちました。
【中浜】そして日本で勉強して、そのあとニューヨークへ。
【杉本】そうです。日本では文学部で学んでいて、全く違う分野だったんですけどね。
障がいで遠くに行けない兄が見られないものを、私達が見てくる使命があるんです。なるべく遠く、なるべく多くの国へ行ってたくさんの人たちと会って学んでくるように母に言われました。そしてニューヨークとロンドンでアートの勉強をして、日本に帰ってからアートに関する仕事につきました。
【中浜】「障がいのある方のアートをもっともっと世に出していこう」という方向になったのは、お兄さんの存在からなんですか?それとも別に障がい者とアートとの出会いがあったからなんですか?
【杉本】母が市議会議員をしていた関係で、福祉作業所と深く関わっていたんですよ。そういう所でものづくりをされているということは知っていて、私も地元に帰ったときに遊びに行くなど拝見していました。そこで、すごく良いものを作っているのにデザイン力が無いなとずっと思っていて、なにか将来的に私が関わることができたらなという思いがあったんですよ。でも、私がいた画廊は高級な部類に入り、一定の富裕層の方々のみを相手にしていたので、長年関わることなく過ごしていました。しかし、たまたま離婚をして自分が本当にしたいことを考えて、原点に立ち返りました。
その後、いろいろ調べて、全国に本格的なアート活動を行っている団体がいくつもあることを知りました。なかでも大阪にあるアトリエインカーブというアトリエに興味を持ち、代表の今中さんを訪ねました。そこで現状や問題点を教えていただき、全国のたくさんの作品を拝見して「これがライフワークとしてやっていくべき仕事だな」と思い、今は精力的に関わらせていただいています。
作品から「障がい者」という冠をはずして
【中浜】全国のアート作品を集めた展覧会を今されているんですか?
【杉本】はい。日本財団さんから助成を頂けることになったので、来年3月に表参道のGYRE(ジャイル)というとても素敵な場所で展覧会を開きます。
【中浜】今までに小さい展覧会などの経験があるんですか?
【杉本】はい。一昨年、古巣の画廊でアトリエ・インカーブの3人展を開催しました。想像以上の反響で、展示した作品のほとんどが販売と結びつきました。特に驚いたのは、ファションやデザインのお仕事をされている方達の関心が非常に高かったことです。これは、彼らの色彩感覚や発想のユニークさが高く評価されたのだと思います。これを受けて、次回の展覧会自体は、準備期間をしっかりとって、よりクオリティーの高いものを目指します。というのも、福祉作業所や自治体が主導の作品展はいろんなところで開かれていますが、アートは見せ方がすごく重要なんです。賛否両論はあると思いますが、私は能力のある方は、障がいの有無にかかわらず、きちんと社会のなかで一定の評価をされるべきだと思うんです。作品そのものが素晴らしいのに、必ず「これって、障がい者が描いたアートなんだよ」とされてしまうことに違和感を覚えました。そもそもアーティストなんて「おかしな人」ばかりで、紙一重みたいなところあるじゃないですか。あえて冠に「障がい者」とつけなくても、十分良い作品は全国にあるということが分かったので、次の展覧会に関しては、かなり気合を入れて準備をしています。発信力のある、異分野の方たちにも是非関わっていただきたいと思っています。
【中浜】すごくわかります。アートだけでなくて、お菓子ひとつにしても「福祉作業所で作りました」という冠がありますよね。もちろんそういう売り方も大事なんですが、お情け感がすごくて。決してそんなつもりではないんでしょうけど「1個250円で障がい者が作っています」というよりも中身が同じで1個500円でしっかりした箱に詰めた方が売れるし利益もあがるだろうと思います。作っている人が障がいを持っているかどうかは重要じゃなくて、お菓子だろうが絵だろうがそれそのものに価値があるんですよね。
【杉本】そう、だから売ることに私はこだわりたいんです。そして作家さんにも還元していく。そうすることで彼らが社会とつながることにもなります。何よりプライドの構築に寄与することが大切だと思い、その信念のもと活動しています。
【中浜】それが今回のイベントのゴールなんですか?
【杉本】そうですね。今回は、場所がら海外の方も多くこられるので、今まで福祉施設や自治体が開いていた展覧会にいらしておられた方々以外の方に広く足を運んでいただけると思います。なので、こんな作家がいて、素晴らしい作品を作っているということを見ていただくことと、そして、それを販売すること。両方を大切に考えています。
アートイベントの継続に意欲
【中浜】まずは来年3月のイベントですが、これからも期間を置きつつもしっかりとした形のアートイベントを継続的に開く予定ですか?
【杉本】はい。次回の展覧会のスペースの場所をとても気に入っているので、どんな形になるかわかりませんが、できれば毎年やりたいなと思っています。その場所での定期イベントになればいいですね!
編集者の一言
「障がい者の〜」ではなく、「アーティスト○○〜」というような当たり前に個人として評価されるという流れも今後必要になってくるのだと感じました。これまでの障がい者アートの捉え方を否定するのではなく、そこに新しい選択肢と新しい観点が加わっていく形。「アーティスト○○が●●の障がいがあった」そんな後から気がついたなんてことでいいんじゃないかな。綺麗なもの、好きなものと感じるのは誰にとっても自由だし、価値を決めるのはその人ですもんね!
アートイベント楽しみにしております!
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この記事の寄稿者
中浜 崇之
二代目編集長。介護福祉士、ケアマネジャー。2014年に世田谷デイハウスイデア北烏山を立ち上げる。2010年より「介護を文化に」をテーマに介護ラボしゅうを立ち上げ運営中。(http://kaigolabo-shuu.jimdo.com/)